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再帰的近代の選択枝~自明性と蓋然性の終焉~ [雑感]

 2010年のPerfumeの新曲は『不自然なガール/ナチュラルに恋して』という両A面シングルでスタートした。

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 『不自然なガール』は、好きな男の子の前で不自然な行動をとってしまう女子の歌だ。PVはやや奇抜な衣装でダンスをし、初めてメンバー以外のダンサーと共演した。でも、曲調はこれまでと似たテクノポップだった。

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 対する『ナチュラルに恋して』は、女性向けブランドであるNBB(NATURAL BEAUTY BASIC)のCMソングだった。PVはまさに大学生という服装で、歌詞も「学生カップル」という感じの「自然」なもので、曲調もポップだった。

 ところが、とあるラジオ番組の中でリスナーから「Perfumeにとっては『不自然なガール』のほうが「自然」で、『ナチュラルに恋して』のほうが「不自然」な感じがする」というメッセージが寄せられ、メンバーが強い感銘を受けていた。私もラジオを聞いていて「なかなか鋭い意見だなぁ」と思った。

 Perfumeにとっての「自然」や「不自然」が、ほかの人たちのそれと異なっていても不思議ではない。あるいは、アーチストとしての「自然」とメンバー個人の普段の「自然」は、異なっているに違いない。『その時々の彼女たちにとっての「自然」とは何か』を考えたり議論する作業は、Perfumeをより深く理解することになり、とても楽しいものだ。


 かつては(今でも一部の人はそう信じているだろうが)、「自然」のほうが自明性(説明しなくても分かること)や蓋然性(確からしいこと)が高く、説明不要とされた。対して、「不自然」のほうは種類が多いために、「それがどんなものか」とか「なぜ自然のままではダメなのか」という「説明責任」を求められることが多かった。しかしそれは、すでに過去の話になった。 

 我々医師が「自然」という言葉に直面する機会が最も多いのは、高齢者の終末期や、末期がんなどのターミナルの医療現場だろう。

 例えば、「DNR(Do not resuscitate)」という医学用語がある。「容態が急変して心肺停止になっても、心肺蘇生を行なわず、静かに看取る」という意味だ。別名「Natural Course」とも言う。患者や家族の要望があり、医学的にそれが適切と判断された場合、主治医が医療記録(カルテ)に「DNR」と記載すると共に、医療スタッフにそれを伝える。その患者が急変した時に主治医が傍にいるとは限らないので、例えば当直医は必ずカルテを確認して「DNR」と書かれている場合は、心肺停止になっても蘇生を行なわない。

 家族がDNRを希望するのは、患者が高齢者や末期の状態で既に意識回復の可能性がない場合が多い。家族は「今まで頑張ってきたのだから、そろそろ、自然な形で最期を迎えさせたい」と願う。

 医師になりたての頃は「自然?病院のベッドで死ぬことが自然なの?」と思ったものだ。

 点滴から僅かな栄養を摂り、看護師に24時間看護られ、身体に取り付けられた心電計やパルスオキシメータのデータが無線でナースステーションに届き、何かあればいつでも医師が飛んでくる。そんな環境の中で死ぬことが「自然」?その一方で、小学校でも教えている心肺蘇生は「不自然」?心肺蘇生しなければ「自然」?

 あるいは、末期がんのターミナルケアで「在宅で最期を迎えたい」という希望があるとする。「自宅で亡くなるほうが自然」と言うのだが、在宅で安寧な終末期を迎えるには、病院にいるよりも何倍も濃厚な医療サービスを受ける必要…と言うか、受けずには居れないだろう。

 多くの末期がん患者は、何も医療を受けなければ、ガンによる激烈な痛み、吐き気、痩せ、抑うつなどに襲われながら死を迎える。今でこそ、それらを管理する薬剤や栄養療法の発達、精神科医の介入などによって、本当の末期になるまで「死が近い」という実感に乏しいほど安寧に過ごせるようになり(その分「死への恐怖」や「自己喪失感」というスピリチュアルな課題が増えるのだが)、最期は意識レベルを落としてあまり苦しまずに逝ける医療が、多くの病院で実現されつつある。

 だが、ほんの30年前までは、ガンの最期はそれこそ「地獄の苦しみ」で、だからこそ「ガン」はひどく恐れられていた。私の友人の何人かは1980年代初めに末期がんの家族を在宅で看取ったが、その時の強烈な体験がトラウマになっていて、祖母や祖父が夜中に鬼のような形相で「痛い~!もう嫌だ!殺してくれ!」と泣き叫ぶ姿が今でも頭から離れないという。その当時は、今のように在宅で痛みや吐き気の管理する有効な方法も栄養療法もなく、耐えられなくなった時だけ救急車を呼ぶ(それが毎晩のように続いたりもする)という「自然」の中で逝っていたが、それは本人にとっても家族にとっても、文字通り「地獄」だった。
 
 従って「在宅での安寧な最期」を実現するには、入院患者以上に痛みや吐き気への対応、栄養管理、精神面のケアなどに多くの医療資源とスタッフを動員することになる。「ヒトの介入」を「不自然」と定義するなら、「自宅での自然な死」を求める在宅ターミナル医療は、病院での医療よりも遥かに「不自然」なのだ。

 「自然」は自明のものでも蓋然でもなく、『何をもって「自然」とするか』、『それを実現するには、どうするか』という「選択」(=「不自然」と言い換えることも出来る)の問題だ。そこには、『「どれだけ意識的に」選択するか?』という横軸と、『「何をどう」選択するか?』という縦軸があるだけだ。たとえば『自分では「意識的な選択」をせず、何か(宗教や共同体など)に委ねる』とか『あえて何もしない』いうのも、実は「選択」の一つに過ぎない。どれをどう選んだら正しいか、何が正解かは、その人しだいであり、正しさに自明性や蓋然性がある訳ではない
 
 世間には、東洋医学(鍼灸や整体、漢方など)と西洋医学を比較して「東洋医学のほうが自然(ナチュラル)だ」と納得する人がいる。暖かい服を着て、自動車で移動して、冷暖房完備した部屋で美味しい物をたらふく食って、それで鍼灸や整体を受ける?いったいどこか「自然」なのだろう?

 東洋医学は「自然」でも何でもない。野生のサルや犬が自分で鍼灸したとか漢方薬を処方したなんて話は聞いたことがない。鍼灸も整体も漢方薬も、西洋医学と同様の「作為」=「不自然」であり、「何をどうするか」の違いでしかない。そんなに「自然」が偉いと思うなら、風呂に入らず服も変えずに、屋外で暮らせばいい。公園や駅に居るホームレスたちは、真のナチュラリストでエコロジストか!?


 さて、社会の流動性が高まったことで個人がどんな人生を歩むか選べるようになり、価値観のバリエーションが広がることで、自明性や蓋然性が失われた結果、「(選択や作為を)するのも選択、しないのも選択」となった現代社会を、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは「再帰的近代」と呼んだ。

 例えば、限界集落となった山村が共同体としての再生を考える時、当事者であるはずの共同体の中から「ヨソ者が入ってきて集落が再生しても、それは再生ではない。それくらいなら集落が消滅してもよい」と平気で言う人が現れることがある。それは「(昔から住んでいる)共同体構成員は、(これからもそこに住んで地域を存続させる意思があるのは)自明・蓋然なので説明不要だが、(そこに流れ着いた)ヨソ者は、(いつ地域を離れるか分からず、共同体をなしがしろにするかも知れないという意味で)非自明・非蓋然なので、説明責任がある」という主張を伴うことが多い。

 生まれた時からそこに住んでいるからといって、「その共同体を次世代に渡って存続させたい」と願っているとは限らない。「ヨソ者は共同体をないがしろにする」と言うが、実際の国土や農村の荒廃を見れば、長いもの(自民党的なもの)に巻かれて「土木漬け」「補助金漬け」に抵抗できなかった(そういう選択をしてきた)「共同体的な人々」が、共同体をないがしろにした、というのが現実だろう。何しろ、数百年に渡って存続してきた集落を、「ヨソ者が嫌い」という理由だけで自分たちの代で潰してしまっても平気と言うのだから、そこには土地を開いた先祖に対する感謝や畏怖、郷土愛を感じ取ることはできない。

 従って、自明性・蓋然性が疑われるのはヨソ者よりも既存の共同体構成員のほうであって、「共同体の空洞化に抗うのか抗わないのか」とか「再生するとすれば、どのような共同体を目指すのか」の説明責任は、むしろ彼らの側にあるのだ。「ヨソ者が入ってきては、ご先祖様に申し訳ない」?そんな、自分の世代のことしか眼中にない偏狭な判断で共同体を消滅させることのほうが、よっぽどご先祖様に言い訳が立たないだろうに。

 そもそも、日本の共同体は、欧州のような宗教や民族などを同じくする集団でも、中国や韓国のような血族集団でも、北米のような共通の目標を持った人工的な組織体でもない。日本では、「その土地を開いた先祖を敬い、感謝する気持ち」や「その共同体を今後も存続させたいという意思」を表明して自ら行動を起こし、それが共同体の既存の構成員に充分認められた時に、共同体の一員として迎えられるのだ。熊野のくまかんさんは、その良い例だ。

 さらに言えば、 共同体内部の者が共同体を再生したり秩序を変えるのは、困難であることが多い。なぜなら、内部の者は「既得権益(しがらみ)」が邪魔をして、中立的な変更・再生が難しいからだ。さらには「俺たちと変わらないのに、なぜアイツらが決めるんだ!」というやっかみを受けやすい。その点、ヨソ者は「しがらみ」や「やっかみ」を受けにくい。そのため、日本に限らず世界各地には、「共同体再生の物語」としての「貴種流離譚」がある。

 それは、「共同体の外から尊い人が現われて、旧秩序を破壊してカオス(混沌)をもたらし、その人が殺されたり立ち去ったあとに、新しい秩序が実現される」というものだ。ヤマタノオロチを倒したスサノオの物語はその典型例で、高天原を追放されて出雲に現われたスサノオは、ヤマタノオロチに食われるはずだった幼女クシナダヒメを貰い受ける代わりにオロチ退治を請け負い、オロチを倒したあとは、クシナダヒメを妻にして共に出雲を出て、須賀に宮殿を建てて住んだ。同じように「鬼」が貴種として人里に現れることもあるが、これは今の日本でリアルタイムで進行中だ。すなわち、戦時中に「鬼畜米英」とされたアメリカが、戦後は新秩序と安定をもたらす「守護神」(進駐軍)として君臨し、今も強大な軍事力を持つ同盟国として日本を「保護」していることだ(アメリカの歴史学者ジョン・W・ダワーの指摘など)。ただ、アメリカという「鬼」は、自身がもたらした秩序が旧秩序となっても宗主国として居座り続け、今となっては、既得権益を振り回して見返りを求めるやっかいな年寄りでしかないというのが実情だろう。

 一方で、「貴種」のフリをして既得権益を奪取したいだけのヨソ者も確かに存在する。そういう人は自らの手を汚すことなく、腹も括っておらず、自身の正統性を自明のように訴えるが、大変打たれ弱く、誰かに矛盾を指摘されると簡単に逆ギレする。地方議員として陳情を受ける側になっても、それは「議員」という仕事ゆえに人が集まってくるのであって、自身の人間性とは無関係なのだが、それが理解できず、「自分は大した人間だ」と舞い上がってしまう。そういう人(医師にも腐るほどいるが)ほど、自分とは無関係な歴史上の人物や戦争犠牲者をダシにしたり、聞いてもいないのに大げさな武勇伝を語って、「上から目線」で自分を正当化するから、簡単に見抜くことができる。

 というわけで「再帰性近代」は何も特別なものではなく、だた近代において「自覚」「発見」されただけなのだ。「選択する」のも「選択しない」のも「選択」であり、どれだけ選択を「意識」し、「どのような」選択をするのか。そこに「正統性(周囲の承認)」が伴えば、その「選択」は成就するのだろう。


 病院での「DNR」に話を戻すと、私には苦い思い出がある。医師になってまだ10日程しか経っていない頃、当直先の病院で「DNR」の患者が心肺停止になったと、ナースステーションからコールがあった。DNRのお看取りが初めてだった私は、「家族は『自然な死』を望んでいるのだから、死亡確認したら、そのまま死亡宣告すれば良いんだな」と考え、家族の到着を確認する前に死亡確認し、死亡を宣告してしまった。程なくして次々と到着した家族は枕元で「間に合わなかった」「看取られずに逝ってしまった」とひどく悲しんだ。

 それを見て私は「しまった!」とひどく悔んで頭を抱えたが、もちろん死亡宣告をやり直すことは出来ず、取り返しは付かなかった。それは、今思い出しても申し訳なくて涙が出るほどの大失敗だった。

 このとき私は、患者家族の言う「自然な死」とは、「ヒトの介入が少ない死」という意味ではなく「家族に看取られながらの死」なのだと悟った。

 それ以来、家族が到着する前に心肺停止になったDNRの患者は、モニター類をすべて外して、手足が冷えないように暖かいタオルで温めるよう指示し、主要な家族の到着を待って、「あと数分でお亡くなりになります。最後の時間を一緒にお過ごし下さい」と言って席を外し、まだ温かい手を家族が握って看取る時間を数分設けてから、「心肺停止と瞳孔反射の消失の確認」という「死亡確認のセレモニー」を家族の前で行って、患者に「これまでよく頑張ってこられましたね」と尊敬の念を示す声を掛けてから、死亡を宣告することにした。

 「死亡宣告」は医師だけに許された仕事だ。医師が死亡確認して宣告しない限り、人は「死んだ」とは見なされない。つまり、「治療」と同じように「死出の旅路の演出」も医師の大切な責務であり、「死ぬこと」も「生きること」の一部なのだ。

 もちろんそれもまた、「正しさ」や「自明」とは無関係の、私個人の「選択」である。

<参考文献>

再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理

再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理

  • 作者: ウルリッヒ ベック
  • 出版社/メーカー: 而立書房
  • 発売日: 1997/07
  • メディア: 単行本




昭和――戦争と平和の日本

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  • 作者: ジョン・W・ダワー
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2010/02/25
  • メディア: 単行本



死をみとる1週間 (総合診療ブックス)

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  • 作者: 柏木 哲夫
  • 出版社/メーカー: 医学書院
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 単行本


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